※私は数学者ではありません。自分用のまとめとしてこれを書いています。楽しむ範囲でご覧いただければ幸いです。内容の正確性については専門家のサイトや動画、あるいは専門書で必ず確認をお願いします。
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公理とは、議論の前提として、「あらかじめ正しいとしておくこと」です。数学でよくなされる証明は不要です。真であることが証明されない公理が数学にあるのはなぜかというと、これなしに議論しようがないためです。
「木」という文字を例に考えましょう。もし「木」という線分の組み合わせが🌳であったり、💦であったり、✈️であったり、人それぞれ異なるものを意味するのであれば、「木」は文字として使えなくなります。何がなんだか分からなくなります。
足し算を覚えたての小学1年生に「1+1は?」と尋ねると、素直な子は「2!」と元気よく答えますが、いたずら好きな子は「ひまわり!」とか「カレーライス!」とか、おどけて答えることがありますよね。そこは2にしましょうよ、というのが公理です。ともすると宇宙の果てまで飛んでゆく融通無碍な発想をpin downする、レールに乗せるのが公理です。(小学1年生や私たち文系はペアノの公理を知りませんが…)
すべてが自由だったり、すべてを疑ったりしてしまうと、何がなんだか皆目見当がつかなくなります。物事を疑い尽くしたデカルトも、「我思う、故に我あり」という公理に至りました。これは、「少なくとも自分がいる」と仮定しなければ、自分以外のものの存在も、関係も、体系も、何も考えられない。話の出発点として、「自分がいることは確かだと仮定しないとどうしようもない」ということです。
「我思う、故に我あり」は真ではないから公理にふさわしくないという人もいますが、この言明の真偽を論ずる意味はないです。なぜかというと、公理とは「あらかじめ正しいとしておくこと」だからです。仮にこれが正しいとして、何が言えるのかが問題なのであって、これが真か偽かはまた別問題である、というのが公理です。
日本人である私たちは、デカルトの公理を無批判に正しいと評価する必要はありません。ただ、地球の裏側には、これを了解事項として生活している人も多くいるだろうと思うだけです。そういう意味で、公理は文化といえるのかもしれません。
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集合論に選択公理というものがあります。選択とは、直積を構成する集合それぞれから要素を選ぶという意味です。この公理の主張は
非空集合$J$で添字付けられた集合族$\{X_j\}_{j\in J}$がある。このとき、すべての $j$ について$X_j\neq\varnothing$であるなら、$X_j$の直積は空集合ではない。つまり
$$\prod_{j\in J}X_j\neq\varnothing$$
ここで
$$\prod_{j\in J}X_j\equiv\left\{f: \{1, 2, ..., J\}\rightarrow\bigcup_{j\in J}X_j|\forall j\in J, f(j)\in X_j\right\}$$
$J$が有限集合であれば真であることが自明とも言えますが、無限集合になるとこれが自明ではなくなるようです。
このとてつもなく難しい公理を、文系の "だいたい" でたとえると…
大宇宙の星々に生息する宇宙人に「私が笛を「ピッ」と吹いたら、各星の代表者1人ずつ一斉に出てきてね。代表者の選び方はそれぞれの星にまかせるから」と伝える。
これができる、すなわち笛を吹いた瞬間に、大宇宙の星々から代表者がサッと立ち現れると仮定しましょうよ、というのがこの公理です。
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この公理を認めるとZorn(ツォルン)の補題というものが導け、ツォルンの補題から整列可能性定理というものが導けるようです。
Zornの補題:帰納的半順序集合には、少なくとも1つ極大元がある。
整列可能性定理:選択公理を認め、関係を適切に定めれば、どんな
集合も整列集合にできる。
こうした言明が意義深いものであったり面白いものであったりするなら選択公理を認めたほうがよいのだと思います。実際、多くの数学者は選択公理を認めているとのことです。
ただこれは、真に数学者の世界です。裾野から霊峰富士を仰ぎ見るのと、頂まで登るのとでは天地雲泥の差があります。私たちが立ち入れる世界では毛頭ありません。頃合いと思いますので、富士の登山口が見えてきたこのあたりで、「集合のはなし」シリーズを閉じたいと思います。
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ここからは、自分向けのメモ(妄想)です。
選択公理は「あなたは無限の世界からいつの間にか有限の世界に至るメビウスの輪の上を歩いていますよ」という呼びかけのような気がします。
・選択公理がある世界:有限と無限の境は溶けない
同時分散・並列処理ができる
・選択公理がない世界:有限と無限の境が溶ける
同時分散・並列処理はできない
また、アレフゼロのアレフゼロ乗 $\aleph_0^{\aleph_0}$ を扱うか? という問題でもあるように感じます。